医王寺の歴史

仏陀(お釈迦様)から現住職まで

 

医王寺の開創は古く、現在も現存する『比丘尼の井戸』、『楠の古木』、『当山開基竹林院律師八百比丘尼の位牌』(若狭・現在の小浜市生れ)などより一千年以上前と推測される。

さらに医王寺七世意國英的大和尚が江戸幕府寺社奉行に宛てた「由緒の事」には、「応永年間中 開山竹林和尚臨済宗也。
大源門下宗芝五派之内賢仲派在天、改曹洞宗」とある。

この書には「法開山在天、二代六山」と記述されているが、当寺の御開山は正式には、六山祖藝大和尚(天文23年/西暦1554年 5/5示寂)で、現住職祖学尭三は23世である。

 

 

数少ない『人法』と『伽藍法』の一致する寺院

 

曹洞宗の宗侶であれば、必ず自分の正法(師匠より法を嗣いだこと)を証明する血脈・円鏡・御大事の三物を持っていなければならない。
これを「人法」という。

また各寺院に開山以来代々伝わる各住職世代を「伽藍法」と言うのだが、本師から受け継がれた「人法」と、開山以来の「伽藍法」とが一致する寺院が殆どないのである。

官裁を得て人法本位となったが、全国を調査したと言う
永久岳水師によると「人法」と、開山以来の「伽藍法」とが一致する寺院は、全国で静岡県に一ヶ寺しかなかったという。

宗教法人 医王寺は「人法」と「伽藍法」が一致する数少ない寺である。
壇信徒の皆様にも、このことを胸に留め誇りと思っていただきたい。

 

日本最後の仇討ちのあった寺

 

牧の原大茶園開墾時の徳川直参旗本の多くの菩提寺である医王寺には、当時の逸話もいくつか残っている。

医王寺の山門を本堂に向ってくぐりぬけて、目につくのが左側にある、大谷内竜五郎の墓である。

徳川時代二百六十四年が幕を閉じ、明治を迎えて、大政奉還に依り世相は一変した。
人命が尊重される寸前、日本最後の仇討といわれ、討ち果たされた彰義隊第九番隊長、大谷内竜五郎の死所として、吾が医王寺が選ばれた。

この史実は山崎有信者の「彰義隊戦史」を始め、吉川英治氏の「飢えたる彰義隊」、静岡新聞に掲載された戸羽瀚氏の「彰義隊駿河話」、近年、掛川出身の榛葉英治氏に著された「大いなる落日」等、数多くの人々に依って書き残されている。

いずれも多少の喰い違いはあるが、その悲劇が医王寺で繰り広げられたことは事実と思われるので、榛葉英治先生のご承諾を得て「大いなる落日」の一部をご紹介して、読者のご参考に供したい。

 

明治三年十二月二十日午後三時、旧本堂の中央の畳二畳を裏返して切腹の座を作り、白木の三方に一枝の菊の都花と、妻の送った年取り餅と短刀を供えて、白装束に身を浄めた、大を谷内竜五郎は、本堂見回して、端に控えている第十九世梵谷悦音住職の前に進み、

「御住職、御本堂を汚して誠に相済まぬ、いろいろ御厄介をかけます」

と挨拶をすまし、切腹の座についた。若い和尚は合掌して珠数をつまぐりながら奥に去り、小坊主が来て、燭台の二本のローソクに灯をつけた。

両側の燈りが広い本堂の風にゆれ、住職の心づくしか香りが漂う前に、三方の短刀を取り若い隊長は自らの命を断った。
時に大谷内竜五郎は三十六歳妻の「りゆう」は三十二歳であった。

それから八十二年、昭和二十六年梵鐘再建を記念して、初倉村最後の村長藁科直次氏外有志達が協議の上、悲劇の人「大谷内」を医王寺に生かすべく、小笠郡河城村沢水加の宗源寺住職に分骨を了解の上、当山山内に埋葬した。
墓標を建て、毎年ささやかな供養をし、香華をたむけてきたが、爾来また二十年余年墓標が朽ち果てたので、昭和四十九年中秋、牧之原開拓臣子孫の会発足を記念して、寺院に関係深い有志が真心を寄せ集めて墓碑を建立した次第である。